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名古屋地方裁判所 昭和43年(わ)637号 判決

被告人 松島元男

昭一二・一二・二生 船員

主文

被告人を禁錮二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は昭和三三年富山県立水産高等学校専攻科を卒業後しばらくまぐろ漁船の甲板員として乗船した後、昭和三六年二月に甲種二等航海士の海技免状を取得して、同年四月日魯漁業株式会社に船員として入社し、同社所属の大型漁船に当初は四等航海士として乗組んだが、入社後約半年で三等航海士に昇格するとともに単独当直にも立つようになり、昭和三九年五月一五日当時は、同社所属の母船式鮭鱒漁業に従事する母船協宝丸(総屯数七、一五八屯八二、長さ一二八米〇二、幅一七米一二、船長滝本広)に三等航海士として乗組み、同船運航の業務に従事していたものであるが、右協宝丸は、船首三・九〇米、船尾六・四五米の吃水で右同日午後六時三〇分北海道函館港を出航し、船長滝本の直接の操船指揮の下にテレモーター(油圧式)のハンドで操舵されつつ、同日午後六時四〇分同港防波堤通過後、同船所属の独航船約三〇隻に続いて北洋漁場に向い、同四一分出港配置解除(スタンバイオフ)して一路南進し、同七時〇五分大鼻岬を七五度(真方位、以下同じ)一・二海里に通過後は徐々に左転して針路を一〇五度に変針し、その後針路を一〇五度に定着したまま、速力は順次上げて対水速力時速約一〇海里で、一路東進をしたものである。而して例年北洋鮭鱒漁業船団の函館出港は正午前であつて、当日の出港予定時刻も午前九時三〇分となつていたのであるが、同年は独航船側と母船側との魚価交渉が手間取つて出港が遅れ、同日夕刻午後五時頃に至り交渉妥結と同時に待機していた一〇船団が殆んど一斉に出港したものであり、恵山岬沖乃至エリモ岬沖までは母船、独航船ともそれぞれ独自に航行し、右各岬沖附近から徐々に船団を組んで漁場に向うことになつており、当時協宝丸の左舷一海里乃至二海里の陸岸寄りには三〇〇隻に近い独航船が帯状に群をなして殆んど同方向に航行していたので、協宝丸としては、なるべくこれらの独航船に近づかないようにとの船長滝本の意識的配慮の下に、予め予定されていたコースラインよりもやや南寄りの沖合いの方をそのコースとしてとつたものであるが、協宝丸が大鼻岬を通過後の午後七時三〇分頃に至り、右滝本が操船を当直当番(四時から八時までの)である一等航海士黒沢義一、四等航海士寺内義雄、操舵手長谷川某に任せて下橋する際には、右黒沢に対して特に引継事項として、左舷の独航船には十分気をつけるように申し渡しておいたのである。

さて、被告人は八時から一二時までが自らの当直当番なので、午後八時一〇分前頃チャートルームに入り、同五分前頃船橋に出たが、その頃協宝丸は汐首岬を左前方正横前二―三点のところに位置しており、独航船群は不相変協宝丸の左舷側前方、正横、後方に帯状をなしてほぼ同方向に向つて航走しつつあったが、そのうち一番近い船でも協宝丸の正横距離一海里以上あり、又その左舷前方一点半以内には独航船は見えない状態であつたが、前記黒沢一航は午後八時のボジションをとつた後、被告人に対して「予定コースは一〇五度である。ログは未だ流してない。左の独航船を離すため、コースラインより少し南にずれている。左の独航船に気をつけつつ、このまま進め」と引継事項を申し渡してすぐ下橋し、又右直後の午後八時二―三分過ぎ頃には前記滝本船長が昇橋してきて、新当直者の被告人に対して「前方をよく注意せよ。舵を左に曲げるな。不安があれば知らせろ。独航船がいたら知らせろ」などと注意事項を申し渡した上、五―六分船橋にいて、同八時一〇分頃下橋してからは、被告人が単独で協宝丸の当直に立ち、同じ頃前記長谷川操舵手に代つて操舵室に入つた小松義数操舵手に舵をとらせて、同人と二人で操船しつつ、同船を針路一〇五度のまま続航させたのである。なお前記寺内四航は当直交代時間の午後八時になつても自分の勉強のためなお船橋に残つたが、同八時三〇分頃には下橋したので、その後協宝丸の船橋にいたのは、当直航海士たる被告人と右小松操舵手の二人のみであつた。而して被告人は、右当直交代後引継を受けたとおり進路一〇五度、予定コースよりやや南寄りのまま、次の変針地点である恵山岬沖目指して一路東進を続け、午後八時一二分汐首岬燈台をビームにして一五度三・一海里の地点を通過し、その後同八時三〇分、同八時四五分の二回ボジションをとってこれを海図に記入し(右四五分のボジションをとるときには、左舷ウイングに出て、同所のコンパスを使用して汐首岬燈台と函館山頂の方位をとつた)、同八時四五分頃右小松から「もうそろそろ恵山ですがログはどうしますか」と尋ねられ、「一寸待つてくれ」と答えたが、前方がクリヤー(当日は天候晴、視界良好であつた)で危険性がないものと速断した結果、同人をログ流しに行かせるべく、同八時五〇分過ぎ頃同人に対して進路一〇五度のまま舵をオートに切り替えるように命じて自動操舵に切り替え、次いで同八時五五―六分頃同人をログ流しのため船尾へ赴かしめた後は、被告人のみが船橋室において見張りをなし、同針路のまま自動操舵で続航したのであるが、およそ当直航海士は、航海中絶えず自船の周囲への注意を怠ることなく、特にその前方及び左右に対しては厳重なる見張警戒をなし、殊に舵を自動操舵に切り替えるような場合には、船長の許可を求めて万全を期すか、さもなくともその際に周囲の状況を十分に観察してその安全を確認した上、切り替え後には前にも増して厳重な見張警戒をなし、他船又は障害物の接近をなるべく早期に発見し、他船が近距離に接近した場合には速やかにその動向を確認し、直ちに汽笛を吹鳴して警告を発し、自船の針路を変更する等適宜妥当な措置を講じてこれとの衝突等による危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるにも拘らず、被告人は右の如き厳重な見張警戒を怠り、且つ前記の如く自動操舵に切り替える際にも前方左右を十分に注視せず、漫然危険はないものと軽信したため、左舷側に見えていた独航船群のうちの一隻である第三海鳳丸(総屯数八四屯七〇、長二四・四米、幅五・二五米、船長鈴木政吉)が同八時四五分頃には協宝丸の左前方約四五〇―七〇〇米(仮に第三海鳳丸が無燈火であつても注視すれば星明りの下に肉眼で船影を認め得る範囲内である)の地点を針路一〇七度半―一一二度(これを右時点において協宝丸から見た場合には左舷船首約一七度乃至四八度)時速約九海里(対地速力一〇海里四分の一)位の速度で航走し、一分間に約三〇―四七米の割合で徐々に協宝丸に接近されつつあったにも拘らず、これに全く気付かなかったので、汽笛を吹鳴し、或は同船の進路を避けるため針路を変更したり速力を減ずる等追越船として当然とるべき衝突避譲の措置をとることなく、前記一〇五度の針路のまま時速約一〇海里(対地速力一一海里四分の一)の速力で自船を続航せしめた過失により、同八時五九分過ぎ頃、方位を求めるため船橋室より左舷ウイングへ出たところ、北海道亀田郡戸井村汐首岬燈台より一二〇度約一〇・二海里の海上において、右第三海鳳丸が丁度協宝丸のホックスルの左側一七―二〇米位のところに同船のともが来るような地点にまで接近して殆んど並行して航走しつつ、なおも接近してくることに初めて気付き、衝突の危険を感じて急拠船橋室へ戻り、テレグラフを操作してエンヂンストップにし、フルアスターンを引き短三声を鳴らして同船を先にやりすごそうとしたが、時既に遅く、右措置の効なく右九時〇〇分三〇秒頃自船の左舷船首を同船右舷後部に約二〇度の角度で衝突させて、即時同所附近において同船を覆没させると共に、別紙一覧表(略)記載のとおり、同船の乗組員二一名全員をその頃同所附近において溺死するに至らしめたのである。

(証拠の標目)

(弁護人の事実上の主張に対する判断)

弁護人は、本裁判において終始第三海鳳丸の方が協宝丸に対して追越船として、その後方から接近してきたものであるとの主張をなし、その前提の下に弁論を進めてきたので、以下当裁判所が右主張をとらなかった事由について、証拠と関連させながら簡単に説明することとする。まず協宝丸の函館港出港時刻が午後六時三〇分であつたことは、前掲証拠中の関係各証拠の一致して示すところであり、弁護人もその点については争つていないので、次に第三海鳳丸の右出港時刻について検討するに当日同船を岸壁で見送つた高橋宏はその検察官に対する供述調書中において、「同船((第三海鳳丸のこと))が出港する際通信士がおくれて乗船したため、同船の出港が他船よりおくれ、船団の最後に出港して行くのを私が岸壁で見送り約一〇〇米沖合に同船が出たのを見きわめてのち、私は岸壁より約一〇歩程歩いて時計を見たところ、六時一五分であつたので最後の船の出たのは六時一五分と記憶しているのです」(記録五〇三丁)、「同船の出港した時間については前述のとおり、六時一〇分頃より一五分までの間であるということは、当時自分のかけていた腕時計で確認しているのでまちがいありません」(同五〇四丁)、「同船に通信士を乗せずに出港し、それに気づいて引き返したという事実はありません。私が通信士が乗組んだのを見届けて出港しているのを見ているからであります」(同五〇四―五〇五丁)と述べているが、同人は高等海難審判庁(当裁判所取寄せの前掲一件記録中五五五丁、なお同所において「時計を見ての話ですか」「いいえ」との問答があるが、これはその前の問答との続き具合からみて、他の船との間隔について時計で正確に出したものではないとの趣旨であつて、前述の如き腕時計を見たとの供述と決して矛盾するものではないと思料する)、函館地方海難審判庁(同二七三―二七四丁)及び当裁判所(記録八〇七―八〇八丁)に対しても略々同趣旨のことを述べておりその供述は相当程度信頼するに足り、又同じく見送人であつた落合勲(司法巡査に対する供述調書、記録五四一丁、及び海難審判庁理事官に対する質問調書、前記一件記録五八丁)、高津政三(司法警察員に対する供述調書記録五六一丁)はいずれも午後六時二〇分位であつたと述べ、星野柳太郎(司法巡査に対する供述調書、記録五五六丁)は同六時一〇分位であつたと述べており(なお同人の検察官に対する供述調書では、五時三〇分位とあるが((同五五一丁))、これは右各関係証拠と比較してみて到底措信できない)、他に格別以上の供述と相違する証拠もないので、第三海鳳丸の出港時刻は遅くとも午後六時二〇分以前であつたものと認められる。従つて同船が協宝丸の出港後の同六時四五分頃に出港したものとする弁護人の主張の第一前提はこれをとることができない。而して右の如く第三海鳳丸の方が協宝丸よりも少くとも一〇分位は先に出港したという事実を前提にしつつ、なお第三海鳳丸の方が本件衝突時において追越船であつたとするためには、途中でいつたん第三海鳳丸が協宝丸に追い越され、更にその後に逆に協宝丸に追いつき追い越す形になつた場合を想定する外ないが、前掲各関係証拠によれば、協宝丸は大体時速約一〇海里で平均した速度で走航しており、途中で格別速度をおとしたという事実を認めることはできないので右に想定した如き場合が成立するためには、第三海鳳丸が当初は協宝丸に追い越されるような速度で走り、途中でその速度をいちだんと加速して協宝丸を追い越すまでの速度を出したという事実がなければならないのであるが、なるほど第三海鳳丸の乗組員全員が不幸にして死亡してしまった以上、同船の走航中にどのような事態が発生したか明らかにすることはできないにせよ、当日出港が予定より著しく遅れていたためにどの船も目的集結地点に向つていそいで航走していたこと、殊に第三海鳳丸は他の独航船よりも出港がずつと遅れてしまつていたことから考えて、同船は始めから出せる速力は出しきつて走航していたものと推量され、右の如く当初はゆつくりと走り途中で速度をいちだんと加速するというような余地はなかつたものと思われるのである。のみならず第三海鳳丸の速力については、同船を造つた山西造船所に勤務する織野俊夫が高等海難審判庁において、同船の公試運転は「二割オーバーで一〇・四ノット」(前掲取寄記録七八七丁、なお同船の公試運転メモ((同七九三丁))参照)、普通の全速力は「当時の状態では九マイル半は出ます」(同七八八丁)、二割オーバーは「約一五分位」しか続かず「それ以上ならエンジンがやけてしまいますか」「はい」(同七八七丁)と答えており、又同船に船長として乗船していたことのある伊藤正太郎が同じく高等海難審判庁において「全速一杯で九・五ノット、……九ノットから一寸です」「一〇ノットも出る様なことは」「ありません、九・五ノット位です」(同七六八丁)と答え、更に同船の所有者の息子である高橋宏が同審判庁において、全速力で一〇マイル三とあるが「それは新造時の公試運転のときの」ものであり、本件のときは「そんなには出ません」、新造後シリンダーやプロペラを取りかえても速力は「新造時より落ちます。シリンダーをかえても力はかわりません」「とりかえる前よりは速くなりますが、新造時より速力が出るとは考えられません」(同六四七丁)と述べ、更に検察官に対する調書の中で、「修理後の平均全速力は約九ノット半…… 九ノット半というのは機械をいっぱいにまわし最高速度の場合の平均速度という意味」(記録五〇一丁)である旨述べている点等その他関係各証拠を総合して、当時同船が時速一〇海里以上も出して走航しえたとは到底考えられないのであり、この点からも前記の如き場合を想定することはできないといわざるをえない。以上の如くであるから当裁判所は第三海鳳丸の方が追越船であつたとする弁護人の主張はとることができず、反つて関係各証拠により、先に摘示した如く、協宝丸の方が追越船として第三海鳳丸の後方から接近していつたものと認定した次第である。

(法令の適用)

被告人の判示所為中各業務上過失致死の点はいずれも刑法第二一一条前段、罰金等臨時措置法第三条第一項第一号に、(刑法第二一一条は昭和四三年法律第六一号により刑の変更があつたので刑法第六条第一〇条を適用して軽い行為時法を適用。以下同じ)業務上過失艦船覆没の点は刑法第一二九条第二項、罰金等臨時措置法第三条第一項第一号に該当するが、右は一個の行為で数個の罪名にふれる場合であるから、刑法第五四条第一項前段、第一〇条により一罪として犯情の最も重い山下利夫に対する業務上過失致死罪の刑で処断することとし、その所定刑中禁錮刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人を禁錮二年に処し、なお犯罪の情状刑の執行を猶予するのを相当と認めるので同法第二五条第一項を適用してこの裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法第一八一条第一項本文を適用して全部これを被告人に負担させることとする。

よつて主文のとおり判決する。

(別紙略)

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